常設展示

菅谷館の主(あるじ)畠山重忠、鎌倉時代の館跡や寺院跡、戦国時代の城郭跡、供養と埋葬などのテーマから、出土資料などを通して、中世(平安時代末期から戦国時代の終わりまで)の埼玉県域の歴史を再現しています。
 

常設展示概要

1 エントランスホール
 エントランスホール(無料スペース)には、「比企地区の城館跡群」のコーナーを設けています。ここでは、菅谷館跡(嵐山町)、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町)、松山城跡(吉見町)の4つの中世城館跡が、国指定史跡「比企城館跡群」に指定されたことをうけて、先の4城館跡をはじめ、比企地区の代表的な城跡を、写真や立体模型、分布地図などにより紹介しています。
2 展示室 
 埼玉県の中世(平安時代末期から戦国時代の終わりまで)を対象として、①当館が立地する菅谷館に居住していたといわれる武蔵武士の畠山重忠、②武士の館とくらし、③県内の中世城館跡、④石造物からみた中世に生きた人々の信仰などをテーマとし、展示しています。最新の出土資料や研究成果を、写真パネルや年表なども活用しながら、わかりやすく紹介しています。
 入館者が、展示を鑑賞しながら、「見て・聞いて・触れて」楽しく学ぶことのできる施設です。展示の鑑賞と、博物館周辺の「比企歴史の丘」の探訪するための博物館として、多くの方々のご来館をお待ちしております。 
(1)前室
 ① 映像による博物館周辺文化財の紹介
(2)展示室
 ① 畠山重忠ロボットによる自身の略歴と博物館の紹介
 ② 男衾三郎絵詞にみる武士の館とくらし
 ③ 菅谷館の主 畠山重忠
 ④ 秩父氏の本拠 嵐山町
 ⑤ 回転劇場 ~太平記絵巻にみる戦支度~
 ⑥ 国指定史跡 比企城館跡群
    
菅谷館跡・杉山城跡・小倉城跡・松山城跡
 ⑦ スポット展示コーナー[話題の遺跡・出土資料の紹介]
 ⑧ 供養と埋葬
 ⑨ 学習コーナー
 

映像による博物館周辺文化財の紹介

1 ビデオブース
 当館の立地する『比企歴史の丘』を探訪する際のモデルコースを紹介しています。①「鎌倉街道を歩く」、②「松山宿から菅谷宿へ」、③「吉見丘陵を行く」、④「川島を歩く」、⑤「和紙の里を訪ねる」、⑥「明覚から堂平へ」、⑦「玉川往還を歩く」と題した7コースがあります。
 ご希望のコースのボタンを押して選択ください。地域の歴史的景観と各コースに点在する見どころを、映像と音声により知ることができます(3ブースで同時に別メニューをみることが可能です)
 なお、展示室受付では、「改訂 歩いて廻る『比企の中世・再発見』(改訂第2版)」(税込み400円)を販売しています。
ビデオコーナー
2.ビデオデオシアター24席+補助席6席)
 文化庁の国庫補助金の交付を得て作成した1)「鎌倉古道をゆく ~新たなる発見の旅~」、同助成事業の一環として作成した(2)「埼玉の戦国城館跡 比企城館跡群を中心に」などを随時放映しています。鎌倉街道上道(かみつみち)沿いの文化財や史跡、中世の城館跡を訪ねる際のガイドとして、ご活用ください。

(1)「鎌倉古道をゆく ~新たなる発見の旅~」(上映時間:25分)
 《内容:あらすじ》
 夏休みのある日、児玉郡神川町(かみかわまち)に住む主人公「安保(あぼ)君」は、夏休みの宿題の自由研究ができずに困っていました。物知りなお爺さんから、先祖の歴史の話を聞き、一緒に鎌倉街道をたどる歴史の旅へ出発することになりました。
 そこで、主人公は、鎌倉街道上道周辺の史跡や文化遺産と出会います。また、比企郡嵐山町(らんざんまち)にある菅谷館跡(すがややかたあと)を見学した後、夢の中で約650年前の昔にタイムスリップしてしまいます。所沢市にある小手指ヶ原(こてさしがはら)の近くで、夢からさめて再び現実の世界へ戻ります。そこからさらに街道を南下し、街道の起点である鎌倉まで進みます。
 鎌倉街道を散策しながら、主人公は、新しい発見や不思議な体験を通して、古道の歴史的な価値を学びます。やがて、主人公の心に故郷への思いが育っていくのでした。

 《鎌倉街道上道について》
 「鎌倉街道」は、私たちの身近にありながら、忘れ去られようとしている中世の道です。鎌倉街道という名称は、江戸時代に幕府が編さんした「新編武蔵風土記稿(しんぺんむさしふどきこう)」や村絵図などに記載されています。鎌倉時代の歴史書には、「奥大道(おくだいどう)」、「下道(しもつみち)」、「上道(かみつみち)」、「武藏路(むさしみち)」などと記されています。
 埼玉県内を通る鎌倉街道は、上道、中道などの幹線のほかに、脇道や枝道が数多くありました。埼玉県の西部を南北に貫く鎌倉街道上道は、首都の鎌倉と上野(こうずけ)国(現在の群馬県)・信濃(しなの)国(現在の長野県)を結ぶ主要な交通路でした。多くの武士や旅人が往来し、政治的・軍事的な機能と、経済及び文化活動の動脈として重要な役割を果たした「いにしえ
」の道です。


(2)「埼玉の戦国城館跡 比企城館跡群を中心に」
 (上映時間:26分)
 《内容》
 埼玉県内には、関東の戦国動乱の中で築かれた城館跡が数多く残されています。このDVDでは、国指定史跡 比企城館跡群[菅谷館跡(嵐山町)、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町)、松山城跡(吉見町)]、国指定史跡 鉢形城跡(寄居町)、県指定史跡 河越城跡、上戸陣跡(以上、川越市)など、県内でも特に保存状態の良好な城郭を取り上げ、考古学の成果を交えながら、城郭構造の特徴を紹介します。

 《比企城館跡群について》
 比企地域には、現在69箇所の城館跡が確認されており、その多くが15世紀後半から16世紀にかけて築かれました。
 このうち、菅谷館跡、杉山城跡、小倉城跡、松山城跡の4城館跡は、保存状態が良好なうえに、北武蔵の戦国時代の様子を伝える史跡として高く評価されています。昭和48年(1973)5月に菅谷館跡は国指定史跡となり、平成20年(2008)3月には、杉山城跡、小倉城跡、松山城跡が、菅谷館跡とともに「比企城館跡群」として国指定史跡になりました。
 

畠山重忠ロボットによる自身の略歴と博物館の紹介

重忠ロボット

 展示室に入ると、センサーが反応して、重忠ロボットが語り始めます。重忠ロボットが語る自身の生涯と、展示室の紹介をお聞きください(2分)。 

畠山重忠(はたけやま・しげただ)
は、秩父平氏の系譜をひき、長寛2年(1164)に、武藏国男衾郡畠山(現在の埼玉県深谷市畠山)で生まれました。父は畠山重能(はたけやま・しげよし)、母は相模(現在の神奈川県)の三浦義明(みうら・よしあき)の娘といわれています。治承4年(1180)、源頼朝が石橋山に挙兵すると、重忠は、はじめ平氏方に属して出陣し、源氏に与した三浦氏を討ちました。その後まもなく、頼朝に仕えることになり、「鎌倉入り」では先陣を務め、「宇治川の合戦」(京都府宇治市)や「一の谷の合戦」(兵庫県神戸市)などで多くの手柄をたてました。義経追討の際には、頼朝に従い奥州平泉まで出陣しています。そして、頼朝の死後も幕府を支える主要な御家人(ごけにん)として活躍しましたが、幕府内部の勢力争いに巻き込まれ、元久2年(1205)6月22日、子の畠山重保(はたけやま・しげやす)の謀殺を知った後、二俣川(ふたまたがわ・神奈川県横浜市旭区)で非業の死を遂げました。
 

 

男衾三郎絵詞にみる武士の館とくらし

 男衾三郎絵詞(おぶすまさぶろう・えことば)は、武藏武士を題材にした絵巻物です。この物語は、武蔵国の武士・吉見二郎と男衾三郎という二人の兄弟に、二郎の娘を加えて展開され、武士の生活を絵画と文章で説話風に描いています(実在人物の物語ではありません)。
 この絵巻は、13世紀の末葉に成立したとされる中世物語絵巻の代表作の一つであり、武蔵武士の日ごろの生活のありさまや武士の館の構造などをよく表しています。このコーナーでは、男衾三郎絵詞のなかから、華やかな吉見二郎の日常生活と無骨一辺倒な男衾三郎の生活風景を対比させながら、紙芝居仕立てにして紹介します(5分)。
 なお兄弟の名字は、当時の武蔵国の地名からとっており、吉見は現在の比企郡吉見町一帯、男衾は大里郡寄居町一帯であったといわれています(男衾の地名は、現在、東武東上線の駅名に名残をとどめています)
 原資料は、東京国立博物館に収蔵されています。
 

菅谷館の主 畠山重忠

菅谷館の主 畠山重忠

◆畠山重忠の生涯と人柄
 畠山重忠は、秩父平氏の一族で、武藏国の畠山荘(現在の深谷市畠山)で生まれ、頼朝に従い平氏追討に尽力しました。
 文治5年(1189)の奥州藤原攻めでは、阿津賀志(あつかし)山(現在の福島県伊達郡)の合戦で戦功をあげました。
 元久2年(1205)、菅谷の館から鎌倉へ向かう途中、北条義時(よしとき)が率いる幕府軍と二俣川(ふたまたがわ)(現在の横浜市旭区)で戦い、壮絶な最期を遂げました。
 重忠は、大力の持ち主として知られ、寺院建立の際には、礎石を一人で運んだなど多くの逸話を残しています。また、鶴岡八幡宮における静御前(しずかごぜん)の歌舞の際、銅拍子(どうびょうし)で伴奏しており、教養人としても知られています。
《主な展示資料》
(複製)源頼朝袖判(古文書)
文治5年(1189)8月、奥州征伐の際、頼朝が重忠あてに出した文書。制圧地における統治の心得を指示している。原資料は、東京大学史料編纂所
蔵の島津家文書。
写真)永福寺の大石
建久3年(1192)、永福寺建立の際、重忠がひとりで運んだと伝える庭石。
(複製)重忠絵馬
重忠が力石を抱えている様を描く絵馬。力自慢の重忠にあやかって、
男の子がたくましく成長するようにと祈願する際に用いられたという。原資料は、東京都江戸東京たてもの園(東京都小平市)蔵
(模造品)銅拍子
文治2年(1186)4月、鶴岡八幡宮における静御前の歌舞に、重忠はこの楽器で伴奏した。
 
◆畠山重忠ゆかりの地
 源頼朝に重く用いられた重忠の活躍ぶりは、「吾妻鏡」や「平家物語」などに記されており、その活動範囲は、広く全国に及んでいます。また、重忠にまつわる伝承や逸話が日本各地に遺されています。
《主なゆかりの地》
1)埼玉県内
畠山館跡(埼玉県深谷市)
長寛2年(1164)、重忠が誕生した場所と伝えられる館跡。重忠の墓と伝える凝灰岩製の五輪塔【県指定】のほか5基の五輪塔が残る。『新編武蔵風土記稿』に、土塁や井戸が遺ることが記載され、現在も重忠の産湯の井戸と伝えるものが現存する。館跡内には、鵯越で愛馬を担いで下った伝説にもとずいた銅製の像がある。また、重忠を詠んだ松尾芭蕉の句碑「むかしきけ 秩父殿さえすまふとり」もある。

福寺(埼玉県深谷市)
畠山館跡から北東500mに位置する。平安時代の開基で、重忠が寿永年間に再興し、自ら菩提寺としたと伝えられる。現在の建物は江戸時代以降のものである。
椋神社
(埼玉県深谷市)
満福寺の北に位置する。畠山氏が秩父からこの地に進出した際、秩父郡秩父市にある椋神社(式内社)を勧請したと伝えられている。
平沢寺(埼玉県嵐山町)
境内から、重忠の曾祖父(3代前)の秩父重綱が埋納した、久安4年(1148)の年号が刻まれた経筒が江戸時代に発見された。
菅谷館跡(埼玉県嵐山町)
文治3年(1187)11月までには畠山館から移り、国元の邸宅とした館跡。重忠は、鎌倉街道に近く交通の便のよい当地に進出したと推察されている。現在残る館跡の範囲は戦国時代のものである。館跡内には重忠の立像がある。

慈光寺(埼玉県ときがわ町)
文治5年(1189)6月、奥州征伐の際、頼朝が戦勝祈願を依頼した天台宗の寺院。重忠も信心を寄せたと伝える。重忠が梵鐘を担いで山道の参道を登ったという伝説が残る。寺僧の最高職には、重忠の伯父であった厳耀や、重忠の子の重慶・円耀兄弟の名前もみられ、畠山一族と深い関わりのあったことが知られる。

(2)関東地方
重忠邸跡 (神奈川県鎌倉市)
鎌倉の邸宅(鎌倉幕府成立後、公務で鎌倉務
めの際
に居住した場所)
御嶽神社(東京都青梅市)
重忠が奉納したと伝える赤糸威大鎧【国宝】や大刀が伝世する。境内にはアルミ製の重忠騎馬像がある。
二俣川古戦場・首塚(神奈川県横浜市旭区)
元久元年(1204)、重忠が討たれた場所。現在は擁壁され当時の面影はないが、畠山重忠公の碑が建つ。周辺には、鎧の渡しや首洗い井戸があり、重忠首塚に石塔がある。別名、万騎ヶ原古戦場ともいわれる。六ッ塚は、薬王院の境内に、重忠の最後に従った一族郎党134騎を埋葬したと伝える6つの塚が残る。駕籠塚は重忠の内室「菊の前」が自害した場所といわれ、駕籠こど埋葬したと伝えられる
神奈川県横浜市金沢区・釜利谷地区
この地は、重忠の領地であったと伝えられ、重忠開基といわれる東光禅寺に供養塔と重忠愛用のものと伝える馬具が遺されている。対岸の六郎谷には嫡男六郎重保墓と伝える五輪塔が残る。禅林寺では毎年供養が行
われている。
3)その他
宇治川古戦場(京都市宇治市)
元暦元年(1184)1月、源義経に従い木曽義仲の軍と戦った場所。濁流渦巻く宇治川を渡る際、重忠が馬から下り徒歩で渡っている時、流されていた烏帽子子の大串重親をつかまえ対岸に投げたといわれる。また、義仲の家子の長瀬重綱を馬から引き落とし、首をねじ切ったという。

一の谷古戦場(兵庫県神戸市)
元暦元年(1184)2月、平氏追討のため、一の谷まで進軍した義経が、平氏の陣営を背後から攻めるために鵯越(ひよどり)越えを逆落としし急襲した。このとき愛馬をいたわるため背負って急峻な崖を下りたという伝説を生
んだ。この戦いで重忠の郎党の本田近常が平重盛の末子師盛を討ち取ったとされる。
屋島古戦場(香川県高松市)
文治元年(1185)2月、義経に従い、平氏を討伐した場所。

阿津賀志山防塁(福島県国見町)
文治5年(1189)8月、奥州征伐のおり、阿津賀山の要害の戦闘に先立つ夜、重忠の従者に用意させ
た鋤鍬を使い、また軍夫80人に土や石を運ばせて、防御線の堀を埋めたといわれる場所。
中尊寺金色堂(岩手県平泉町)
 文治5年(1189)8月、頼朝に従い、奥州藤原氏を討伐
宮城県岩出山町内
文治5年(1189)9月、奥州征伐の恩賞としてこの地を所領として賜り、葛岡城を築き、弟の重宗を移住させた。
富山県細入村楡原
重忠の墓と伝わる五輪塔が残っており、毎年7月22日に五色の旗を立て菩提を弔っている。

出土資料にみる武士のくらし
 12世紀に入ると、武士の館(やかた)が主要街道沿いや河川交通の要地などに築かれるようになりました。
 発掘調査で明らかになった12~13世紀(平安末期~鎌倉期)の館跡は、主屋を中心とした建物群の周囲を堀や溝で囲んだもので、敷地内には屋敷や馬屋などが建っていたものと思われます。 館は、武士の普段の生活の場であるとともに、武芸を鍛錬する場でもありました。
 今回は、下田町遺跡をとりあげます。
下田町遺跡(熊谷市津田) 
 古代東山道が北に延びる道と和田吉野川が交わる交通の要地に立地しています。溝によって方形に区画された屋敷跡が連続し、各区画内から掘立柱建物跡、井戸跡などが発見されました。古瀬戸や中国製の高級陶磁器などが大量に出土していることから、武士の居館と流通にかかわる集落跡と推測されます。また、この地域に勢力を持っていた私市党の市田氏に関する遺跡ではとの推測もなされています。
 《主な展示資料》 かわらけ、漆椀、青磁片 など
 

秩父氏の本拠 嵐山町

秩父氏の本拠 嵐山町

 
菅谷館跡が所在するこの地域は、古くから「スガヤ」と呼ばれ、鎌倉街道上道と都幾川が交差する交通の要所として栄えました。
 都幾川をはさんで菅谷の対岸の大蔵には、秩父重綱の子・重隆(しげたか)が帯刀先生(たてわきせんじょう)源義賢(みなもと・よしかた)を迎え入れた地と伝えられ、大蔵館(現在の大蔵神社の場所)がありました。
 久寿2年(1155)には、この地で、義賢と甥の源義平(よしひら)との間で大蔵合戦があり、畠山重忠の父・重隆は義平側に加勢したといわれています。
 菅谷館跡は、秩父平氏の系譜をひく畠山重忠(はたけやま・しげただ)が遅くとも文治3年(1187)11月までには館(やかた)を構えていた場所であり、元久2年(1205)の出陣もこの館からでした。館の周辺には秩父平氏に関係する遺跡があります。
 平沢寺(へいたくじ)には、重忠の曾祖父(=3代前)の秩父重綱(しげつな)の名を刻んだ久安4年(1148)の年号のある経筒(きょうづつ)が発見されてます。このことから、秩父盆地を本拠とする秩父平氏の勢力がこの時期に当館付近にまで及んでいたことが伺えます。
 
《主な展示資料》
 大蔵館跡(嵐山町大蔵)出土品(嵐山町教育委員会蔵)
 行司免遺跡(嵐山町大蔵)出土品(嵐山町教育委員会蔵)
 宮の裏遺跡(嵐山町大蔵)出土品(嵐山町教育委員会蔵)
 平沢寺(嵐山町平沢)出土品(嵐山町教育委員会蔵)
 平沢寺出土の鋳銅経筒【埼玉県指定文化財】
 

回転劇場 ~太平記絵巻にみる戦支度~

 太平記絵巻の4つの場面を題材に、武士の戦の様子を紹介しています。人形は動きませんが、4つの場面が演劇の舞台装置のように回転して変わります。また、音声で戦の様子を聞くことができます(全体で約3分)。

〈第1幕〉新田義貞の出陣
  「太平記絵巻」第3巻第12紙の場面。
  『太平記』では、巻十 新田義貞謀反事付天狗催越後勢事の箇所です

〈第2幕〉両陣営のにらみ合い
  「太平記絵巻」第7巻第6紙の場面。
  『太平記』では、巻二十 黒丸城初度軍事付足羽度々軍事の箇所です。
  越前国足羽川の北にある安居(はこ)の渡しで、川を挟んでのにらみ合いを再現しています。

〈第3幕〉先陣争い
  「太平記絵巻」第7巻第4紙の場面。
  『太平記』では、第十九 奥州国司顕家卿並新田徳寿丸上洛事の箇所です。
  利根川における先陣争いの場面を再現しています。


〈第4幕〉青野原の戦い
  「太平記絵巻」第7巻第5紙の場面。
  『太平記』では、第十九 青野原軍事付嚢沙背水事の箇所です。
  青野原は美濃国にあり、暦応元年(1338)の出来事です。
 

国指定史跡 比企城館跡群

 ◆比企城館跡群 ~菅谷館跡・杉山城跡・小倉城跡・松山城跡~
比企城館跡群

1 菅谷館(城)跡  所在地:比企郡嵐山町菅谷
 菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人であった畠山重忠が居住していたと伝えられていますが、重忠時代の遺構は現在のところ確認されていません。現在見られる土塁や堀などは、戦国時代の遺構です。
 都幾川の河岸段丘崖とこれに注ぐ小河川の2つの渓谷を取り込んで、5つの郭(くるわ)を配した広大な平城を築いています。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏と山内(やまのうち)上杉氏が争った長享年中の大乱(1487~1505)の際に、使われた城郭と考えられています。

2 杉山城跡 所在地:比企郡嵐山町杉山
 杉山城跡は、鎌倉街道上道(かみつみち)を見下ろす丘陵上に築かれています。傾斜の急な切岸(きりぎし)、大規模な横堀と連続する折れ、複合的な虎口(こぐち)の形態など、高度な築城技術を集めたこの城は、戦国期城郭の最高傑作と高い評価を得ています。
 これまでは、後北条氏の城と見られてきましたが、発掘調査の結果、15世紀末から16世紀前葉の土器や陶磁器が出土したことから、長享年中の大乱の後、山内(やまのうち)上杉氏が扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に対抗するために築いた城であったと考えられるようになりました。
 
3 小倉城跡  所在地:比企郡ときがわ町田黒
 小倉城跡は、槻(つき)川の蛇行点に張り出す丘陵上に築かれた山城です。城主は、後北条氏の重臣であった遠山氏とする説、大河原谷を支配した上田氏とする説があります。
 小倉城は発掘調査の結果、16世紀代には築城され、16世紀後半以降は八王子城と鉢形城とを結ぶ重要拠点になったものと考えられます。
 この城の最大の特徴は、戦国時代の関東の城には珍しい石積を随所に築いていることです。

4 松山城跡 所在地:比企郡吉見町北吉見
 松山城跡は、比企丘陵に築かれた北武藏地方で屈指の平山城です。15世紀中頃から後半に、古河公方足利氏・扇谷(おうぎがやつ)上杉氏・山内(やまのうち)上杉氏による軍事的緊張のなかで築城されたと考えられ、16世紀には、後北条氏と関東管領(かんれい)上杉氏・越後長尾氏(上杉謙信)との間で争われた松山合戦舞台となりました。永禄6年(1563)以降、後北条氏の支城となり、上田氏が城主となりました。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城しました。
 
◆北武蔵の中世城郭
騎西城跡
 
所在地:加須市根古屋
 騎西(きさい)城は、古くは「私市城」とも表記され、15世紀中頃の築城と伝えられます。城は湿地に囲まれた微高地に築かれ、発掘調査で、障子(しょうじ)堀が確認されています。出土遺物は、武器・武具、生活用具、蘇民将来符(そみんしょうらいふ)、碁石や将棋の駒など多種類にわたり、城での生活全般をうかがうことができます。特に、堀跡から出土した兜(かぶと)
は県内唯一の出土資料です。遺物は、16世紀後半~17世紀前半頃のものが多く出土しています。
 

供養と埋葬

供養と埋葬 
 中世には、板碑(いたび)、五輪塔(ごりんとう)、宝篋印塔(ほうきょういんとう)などの造塔供養がさかんに行われました。造塔供養とは、死者の極楽浄土への往来、または自身の死後の安楽を願うために、石塔を造立する行為です。
 板碑は現在、埼玉県内で30,000基近く確認され、その数は全国一を誇ります。また、長瀞町(ながとろまち)野上下郷(のがみしもごう)と、小川町下里(しもざと)には、板碑石材である緑泥石片岩の採掘跡があります。切り出した石は、主に河川を使って運びだされたと考えられます。
 中世の墓地跡から出土した板碑は、行田市築道下(ちくみちした)遺跡のように、火葬骨を納めた容器に接して建てられているので、死者の供養のためのものと考えられます。
 
《展示資料》
 ◆ 板碑
  (1)行田市築道下遺跡出土板碑
   ・  嘉暦三(1328)年銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 埼玉県教育委員会蔵  
    ・ 古瀬戸壺(14世紀前葉) 埼玉県教育委員会蔵
    上記の板碑のの下から発見されたものです。黄褐色の釉(ゆう)のかかる古瀬戸灰釉瓶子(へいし)で、菊花の印花文を施しています。蔵骨器としては高級品に属するもので、骨を入れるには細すぎるためか口縁部を打ち欠いています。
   ・ 貞和二年(1346)銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 埼玉県教育委員会蔵
   ・ 貞和2年(1346)銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 埼玉県教育委員会蔵
     上の板碑と双碑になる板碑で、主尊の下には、梵字で大日如来三尊真言のうち法身を刻んでいます。
 
 (2)新発見の初期図像板碑
  ・ 年不詳阿弥陀三尊陽刻図像板碑 鎌倉時代 東松山市個人蔵
 
 (3)東松山市正法寺境内出土板碑
  ・ 応安八年(1375)銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 正法寺蔵
   塔身に金剛般若経のげじゅを刻む板碑
  ・ 応安八年(1375)銘阿弥陀一尊種子板碑 南北朝時代 正法寺蔵
   塔身に法華経化城喩品のげじゅを刻む板碑
   上記の板碑と一対で造られたものです。
 

学習コーナー

平成28年11月1日のリフレッシュオープンに伴い、新たに学習コーナーを設置しました。
博物館の所有する歴史関係の本を自由に閲覧できます。歴史の専門書から漫画まで大人も子どもも楽しめます。
※貸出は行っておりません。
学習コーナー